ジャンプSQ.
ジャンプSQ.
マンガ家 直撃インタビュー[モノガタリ]

――その状態からどう脱却を?

●助野 当時、担当さんに「とりあえず漫画を通して伝えたいことを全部描いてみて」と言われていまして。でも描いたら80ページぐらいになったんですよ。「描きたいことはわかった。でも長いね」と。50ページぐらいにまとめることになったんですが、そこからが大変で。ただ短くしてもダイジェストみたいになるし……最初とどんどん違う方向に行ってしまって。それで、この状況をどうにかせなあかん! と、大学に行って竹宮先生に相談したんです。そしたら「最初に描いたものに自分が描きたいことが詰まっている。だからその中から本当に描きたいと思ったことを探し出して描けば、簡単に50ページぐらいにできるわよ」って。

――縮めるということではなくて、一番大事な部分を中心に描けばいい、と。

●助野 そういうことだと思います。でも実は、最初の80ページのネームはむかついてもう捨てていた(笑)。悩んでいた間は電話できずにいた担当さんに2か月ぶりぐらいに「すみません、僕のこと覚えてますか?」と電話して。「最初に送ったあのめっちゃ長いネーム送ってください!」って言いました。

――竹宮先生の言葉をきっかけに俄然行動し始めた感じですね。

●助野 もうひとつきっかけがあって。竹宮先生と会った同じ日に、友達と話していたら空知(英秋)先生が言っていたことを思い出した。『銀魂』のおまけページで「空知先生は漫画を描いているときどういう気持ちですか」っていう読者からの質問に、「常々、楽しみながら描くということは忘れないように心がけています」というようなことを答えていて、僕もそうやって描いていきたいと思ったことがあったんですよ。それなのに、つらい状態のなかで、そのことを忘れていた。思いだした瞬間、近くにあったクロッキー帳に「楽しんで描く」と大きく書きました。そこから半年ぐらい悩んでいたネームを、一気に2週間ぐらいで仕上げた。

――さきほどのお話しに出てきた学園祭のときの先輩の言葉ともリンクしますし「楽しんで描く」というのは、助野先生の信条といえるものなんですね。

●助野 そうですね。

――そのネームはどうなったんですか?

●助野 担当さんも「もう十分悩んだからこれでいこう」って言ってくれて「月刊ジャンプ」で最初にとった賞のひとつ上、15万円の賞に引っかかりました。実はそこでちょっと満足しかけてたんですよ。漫画家になるのがこんなに苦しいんだったらもう、就職活動でもしようかなと。でも受賞者発表のページを見ていたら、「15万・助野嘉昭」ていう僕のこじんまりとした絵のそばに、めっちゃでっかく後輩の絵が載ってたんですよ。35万円の賞で。学生時代からすごく濃い絵を描く女の子で、「おもろいな、この子」って僕も思っていた。僕はあれだけ悩んだのに、天才にひょいって飛び越えられた、みたいな気持ちがしてきて「ここでやめてられへん!」と(笑)。

――同じページに載っていてよかったですね。

●助野 そう、その子が載っていなかったら、もしかしたらその時点でペンをボキッて折ってたかもしれないです(笑)。

――その後は?

●助野 サッカー漫画を描いて、また15万円の賞をいただいて。ネームを描いているときは、あの苦しかった状況が頭をよぎったりはしてましたが(笑)。実はサッカー漫画を描きながら(デビュー作の)『帰って下さい。』の貧乏神の「紅葉」というキャラを既に作っていまして。すきを見てネームは描いてました。僕のなかではいいテンションで描けたし、悪くないんじゃないかと思って、それを持って初めて東京に担当さんに会いにいきました。

――それまでは電話だけだったんですね。

●助野 そうなんです。それで『帰って下さい。』のネームを見てもらったら担当さんも結構気に入ってくれまして。これを本誌の読み切りとして載せるか、手塚賞に送るか、という話になりました。ちょうど(応募規定の)31ページだったんですよ。でも僕の中では、後半ちょっと詰め詰めな感があるから、35ページぐらいに増やして、本誌掲載を目指そうと思ってて。というか、手塚賞なんて入選できるわけないと思ってたし、日にちもなかったし。それなのに「手塚賞に出すことにしたから今月末締め切りね」って言われて、「うそ!」と。三週間ぐらいで仕上げたんですよ。

――それが見事入選して「月刊少年ジャンプ」でデビューされたわけですね。

連載前の「第二氷河期」に確立した創作方法とは?

――最初の受賞から手塚賞でのデビューまで、相当大変な思いをしてこられましたが、そこから連載までは順調に?

●助野 いえいえ。担当さんに「画力をあげろ!」と言われて『ロザリオとバンパイア』の池田先生のところでアシスタントさせてもらっていたんですけど、めちゃくちゃしごかれました(笑)。アシスタントに行きつつ、次回作のネームを描きつつ、な感じで。ぶっちゃけこの間にもまたノイローゼになってるんですけど(笑)。

――なぜそういった状態に?

●助野 『帰って下さい。』は、僕の中では「奇跡の一品」だったんです。あの当時の技術では到底できないことが、勢いでできてしまっただけで。今でも覚えてるんですけど、「月刊少年ジャンプ」の当時の編集長が「自分の中のハードルは、ちょっとだけ上に設定すること。頑張ってそれを越えたら、さらにちょっとずつ上げていく。いきなり高くし過ぎると越えるのは難しいし、越えても後々大変になる」ということを授賞式のときにおっしゃってて。そのときの『帰って下さい。』は既にその状況だった。第二氷河期ですね。

――第二氷河期ですか……。そのころ「月刊ジャンプ」が休刊になって、担当も替わったんですね。

●助野 今度は「ジャンプSQ.」の新創刊での連載を目指そうと。「コメディーとか笑いとかも交えたサッカー漫画にしましょう」「いきましょう、いきましょう!」なんて、かなり盛り上がって、目標はクドカンに脚本を書いてもらって、ドラマ化! とかいって(笑)。キャラの表から作って相当じっくり打ち合わせしましたね。そのときにいろいろなやり方を模索したのはすごくよかったですね。

――創作方法を模索した、と。

●助野 そうです。僕はまず脚本をつくるんですよ。ドラマとかアニメの台本みたいな、セリフもト書きも全部入ったものをまず書く。最初はネームを練り込んでる時間がないからやってみたことだったんですけど。ここをがっちり固めてからネームに入ったほうが、その後が断然早い。このやり方だと、プロットでは話の流れ、キャラクターの感情の流れにまず集中して考えられて、ネームの段階では読者にどう見せようかとか、話のテンポとかに集中できる。

――絵にしてから直すよりもテキスト状態で直すほうが効率的ですね。

●助野 担当さんとはテキストの時点でここはちょっと長いとか、「このコマは大きくしよう」とか絵のことも話しながら、やりとりを細かくして、直してしまいます。だからネームになってから丸ごとボツ、というのはないですね。連載前にこのやり方が確立できたのは、本当によかった。僕には合っていたんでしょうね。人によっては絵を描きながらじゃないと話を固めていけない、という人もいますし。最近は、ノートに8ページぐらいのプロットだと、大体原稿45ページにおさまる、というのもわかってきました。

――ちなみにそのサッカー漫画は……

●助野 担当さんとやりとりするうちに「ほんとうにサッカー漫画を描きたいと思ってるのか。一話完結のどたばたのほうが合ってるんじゃないか」と言われまして、「保留」と(笑)。ボツのほうがまだいいと思いましたが。結局、新創刊の連載には間に合わないから、一回読み切りを載せよう、ということになって『ハイド博士の実験ノート』ができました。

――「SQ.」初掲載の作品ですね。これはどうやって生まれたものだったんですか。

●助野 友達と話しているときに「マッドサイエンティスト」っていう言葉だけが最初に浮かんで。そのあとはわりとすんなりネームができました。この作品で「ドタバタ」と「ドラマ」のまぜ方がちょっとわかった気がします。サッカー漫画の前に描いた『全力宇宙人』でだいぶ悩んで、わかってきたところだった。

――どんなところで悩まれていたんですか。

●助野 前半はどたばたコメディーなのに後半ですごくシリアスな展開になるんですよ。主人公の暗くて悲しい思い出が出てきたりして、前半と後半でかなり温度差があった。当時の担当さんに「最初10ページまではおもしろいんだけどね」って言われて「あ、それなら最後50ページまでそのままのテンションで勢いで乗り切ったらいいんちゃう?」と気づきまして。半年くらい悩んでたネームが1か月かからずに完成したんですよ。悩むと長いけど、気づいたら早い(笑)。

――節目節目で、竹宮先生だったり、空知先生だったり、担当さんだったり、誰かの言葉に「はっ」として、一気にエンジンがかかることが多いようですね。

●助野 本当にいつもそれですよね(笑)。その時に、ここまでだと行き過ぎで、ここまでなら笑って済ませられるという温度差の出し方がわかった。『ハイド博士』でも、ハイドには実はちょっと暗い過去があったりもするんですけど、これはもう描くべきじゃない、っていう線引きが自分のなかでできるようになっていました。