ジャンプSQ.若手作家が聞く「マンガの極意!」浅田弘幸 先生 & 濱岡幸真 先生

《1》浅田先生、「少年漫画」のルーツ

濱岡幸真先生(以下、濱岡) 浅田先生の絵にずっと憧れてきたので、凄い緊張していますが、宜しくお願い致します!では最初に、浅田先生が漫画家を志したきっかけを教えて下さい。

浅田弘幸先生(以下、浅田) 幼稚園の頃から漫画家になりたかったんですよ。多分、先生や周りの人から絵を褒められて、そう思うようになったんでしょうね。その頃は本当に子供が描くようなタヌキやウサギといった動物や、絵本の絵を真似していました。

濱岡 では、実際に目標とした漫画はありますか?

浅田 漫画も小さい頃からずっと好きで読んでいて、しかもその頃は今みたいにコミックスがシュリンクされておらず、本屋さんで立ち読みができた時代でした。だから本屋さんに行っては、よく立ち読みをしていて。特に好きだったのは、当時ブームだった『銀河鉄道999』などの松本零士先生の作品です。漫画家という職業をより意識したのもそこからでしょうね。当時の少年漫画が本当に大好きで、今でもその「少年漫画が描きたい!」という気持ちを引きずって続けているのだと思います。

濱岡 少年漫画で、特に影響を受けた作品はありますか?

浅田 『銀河鉄道999』はもちろんですが、『あしたのジョー』(ちばてつや)『デビルマン』(永井豪)…と、挙げ始めたらキリがないです。藤子不二雄A先生の『まんが道』にも凄い影響されて、「自分も漫画家を目指して上京するんだ!」とか言っていました。神奈川県在住なのに(笑)。そして中学に入った頃、今度は江口寿史先生の漫画に出会って衝撃を受けました。小学校の頃から『すすめ!!パイレーツ』は読んでいましたが、中学に入って『ストップ!!ひばりくん!』の新しいセンスに憧れて、実際に絵にも影響を受けました。他にも大友克洋先生(『AKIRA』他)、上條淳士先生(『TO-Y』他)といった、その時代時代の「こういう凄い表現があるんだ!」と驚かされる新しい作品に影響されています。

濱岡 浅田先生が、実際に漫画原稿を描き始めたのはいつ頃ですか?

浅田 小学校の5、6年生くらいからだったと思います。お手本の漫画を横に置いて、自分の感覚でコマを割って描いていました。その後、17、8歳の頃に初めてできた投稿作品(※)を、上條先生が『TO-Y』を連載していた「週刊少年サンデー」に持ち込みました。ただ、その頃の「サンデー」は新人賞が年2回しかなく、次の賞まで半年くらい待たなければならない。せっかく描いたのだからと、そのまま「月刊少年ジャンプ」(以下、「月ジャン」)に投稿しました。 (※:1986年「月刊少年ジャンプ」漫画大賞準入選作品『幽界へ…』)

濱岡 投稿した際、編集部に言われて特に印象に残っているものはありますか?

浅田 投稿作は一応コメディでしたが、ヒロインの顔が潰れて死ぬ場面があって…それを描き直せと(笑)。「ヒロインにこんなヒドいことをするのは少年漫画じゃない!」と言われて。賞も頂いて掲載も決まっていたけれど、そこだけは直すことになりました。

濱岡 浅田先生は最初、コメディ作品を志していたのでしょうか?

浅田 最初の投稿作はコメディでしたが、必ずしもそれにこだわっていたわけではありません。「描きたい!」と思いつくものは漠然としたシチュエーションやシーンで、1本の漫画としては考えていなかった。「こういうシーンを描く!」はあっても、それをどう繋げてどう盛り上げるかまでは至っていなかったというか…。

濱岡 つまり、その頃から描きたいシーンなどがまずあり、それを見せるために1本の漫画を考えていたということですか?

浅田 そうです。その頃ってそういった、アイデアで一点突破するくらいしかできなかったのだと思います。

濱岡 ちなみに最初のコメディの作風は、のちの連載作品『BADだねヨシオくん!』に繋がっているのでしょうか?

浅田 いえ、あの頃はストーリー漫画をいっぱい描いていましたが、ネームが全然通らなくて…。それでヤケになって描いたものです(笑)。

取材&マンガ 濱岡幸真
手塚賞準入選「超人 馬場ババ子伝説」でSQ.19で掲載デビュー!